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厳島神主家の居城 桜尾城

 桜尾城はいつごろできたのか。
江戸時代廣島藩編纂された「芸藩通志」には,桜尾城鎌倉幕府いた源頼朝弟範頼
子孫である吉見氏いたとある。
しかしいつ頃できたのかは不詳である。 
 厳島神社社殿創建は、推古天皇即位元年(593)に佐伯鞍職によるとえられる。
平氏伊勢武士で、忠盛子、平清盛久安二年(1146)安芸任官し、厳島神社 
信仰するようになり、安芸留守役佐伯氏厳島神社神主佐伯郡司ねてい 
たので平氏厳島神社関係はよりくなっていった。 
 神主佐伯影弘時代、隆盛め、仁安三年(1168年)現在のような原型ができ、こうして
平家一門崇拝により厳島神社運盛大となっていった。文治元年(1185年)壇ノ浦合戦
平家滅亡したことは、歴史上大きな変革となり、神主佐伯氏勢力衰退し、厳島神社
承元元年(1207年)にき、貞応(1223年)二度目の火災後は、12年もの間、神社再建
ができなかった。そこで鎌倉幕府御家人周防守護職であった藤原親実神主職り、 
親実神主職(承久三年(1221年)) と安芸国守護職(文暦二年(1235年))をね、厳島神社
再建することができた。親実はその周防守護職り、武田氏安芸国守護職にな
る。藤原親実子孫神主職世襲し、承久のあった承久三年(1221年)から天文十年 
 (1541年)4月5日友田興藤桜尾城をつけ自決し、大内義隆によりびる。 
こうして、藤原神主家滅亡まで、三百十年ばかり厳島神社神主として、またその神領地 
支配のため、その本拠桜尾城いていた。
 
 (読み)
佐伯鞍職(さえきくらもと)
神主佐伯影弘(かんぬし さえきかげひろ) 
仁安(にんあん) 
文治(ぶんじ) 
承元(じょうげん) 
貞応(じょうおう) 
守護職(しゅごしき) 
藤原親実(ふじわらちかざね) 
神主職(かんぬししき) 
承久(じょうきゅう) 
文暦(ぶんりゃく) 
友田興藤(ともだおきふじ)