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成君寺と山代 十一庄屋物語
(じょうくんじとやましろじゅういちしょうやものがたり)

 
標高500メートルにある仁王門
 
山代十一庄屋 頌徳碑   明治三十二年(一八九九)、山代地方八名の村長達が中心となり建立された。 
 
平成十九年四月十二日拓本採取
 
   

本郷村庄屋・北野孫兵衛の首を葬った首塚

長い間忘れ去られ一目につかない成君寺の裏山・
赤江の地に葬られていたが平成十一年に発見され
案内標識が設けられた。


 毛利氏の防長2州の移封
安土桃山時代の1600年(慶長5)915日西軍参加の関ヶ原合戦の結果毛利氏の防長2州の移封に伴い桜尾城(廿日市)は廃城となり約46年間続いた毛利氏の支配は終わった。また藤原氏以来約400年間当佐伯郡地方の支配の中心であった桜尾城の歴史は終わった。
毛利氏の政策は、国境の守りとして山代地方を重視し城を廃し本郷に代官所を置きこの地を支配した。また、この時代開かれたと思われる集落は 一様に士分(しぶん・・さむらいの身分。) として認められた所もある。山間地域であるため山城特産の和紙の原料となる楮(こうぞ)・三椏(みつまた)の生産があり、耕作地の地力維持に必要な茅・草には事欠かず、農地の生産性は 比較的高かったと思われる。

ここに目をつけた 毛利藩では高い税率を課して、藩財政の潤沢を図っているが、結果として山代一揆を起こしている。
領地8カ国から防長2国に減封され112万石から30万石つまり4分の1に収入を減額され、しかもすでに徴収していた年貢については新領主たちから返還を迫られていた。毛利家最大の財政の危機である。
財政の立て直しとして次のような方策を実施した。
特産物 米・塩・紙・蝋(ろう)の増産

特産物 米・塩・紙・蝋(ろう)の増産
検地の徹底

茶・楮・梅など木一本一本にまで課税

 山代 十一庄屋物語
慶長十三年(一六)十月、嘆願を受けた代官所は討議の末、年貢の取立て高は要求どおり、四割まで下げることになった。検地は、慶長十二年(一六)から十五年(一六一○)にかけて行われ、七ツ三分(七十三l)という途方もない高率の重税であった。この法外な税率に対抗して立ち上がったのが、山代の十一人の庄屋達であった。
翌十四年、代官所から庄屋の代表の北野孫兵衛のもとに一通の文書が届いた。

昨年の一揆に関して折り入って申し渡したいことがあるので一同出頭せよという通告書であった。
その沙汰は、暴動を起こしたことは藩としても許し難い罪科であるとの結論に達した。
よって次の如く申し渡す
十一名の者は死罪獄門申しつけるもの也

 慶長一揆 山代十一庄屋の頌徳碑と北野孫兵衛の首塚
三月十九日、全員荒縄を打たれ引地峠へと登って行ったのである。午後二時、処刑は行われ、そのあと十一名の首は本郷まで運ばれ物河(ものこう・・・本郷川)の土手に設けられた梟首台(きょうしゅだい・・処刑した人の首を木にかけてさらす台)の上に並べられた。さらし首を不憫に思った勇気ある村人達が昼間は役人の目が怖いので夜半こっそりと北野孫兵衛の首を盗み、大きな自然石と首を共に成君寺へと登り、一目につかない成君寺の裏山 赤江の地に葬ったという。
こういった事情で、ここ成君寺境内に、明治三十二年(一八九九)有志により建立された十一庄屋の頌徳碑がある。
おそらく、明治期に村長ほかの有志による史説の掘り起こしから頌徳碑の建立がなされていなければ、十一庄屋の物語は闇に葬られていたに違いない。また北野孫兵衛の首塚しかり。

17世紀初め、慶長十四年(一六〇九)三月二十九日、毛利氏の7割3分の高い税に反対する農民一揆を指導し、本郷村引地峠で処刑された十一人の庄屋の供養碑がこの成君寺にあるのである。十一人は、今から三九九年前のこと民衆を無視した、毛利の藩財政維持のために犠牲になったのであるということを決して忘れてはならない。
                              (参考文献: 山代の心、 山代風土記  中村良雄著)


 
引地峠処刑場跡
 
庄屋十一人の位牌(岩国市本郷町 建立寺)


 

中国新聞 2011916日(金) 山口県 「岩柳」24版