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凡そ六百四十年前、南北朝時代の応安四年(1371年)鎮西探題として九州に向かう途中この地に寄った今川了俊(貞世)の『道ゆきふり』という紀行文には、「九月十九日かひたの浦からしほひの浜を通って佐西の浦に到着し、翌二十日厳島に参詣し夕方佐西の浦に戻り、翌二十一日佐西を出て、地の御前といふ社の西ひがたより山路に入るほどに
.云々」とあり、南北朝時代には、この地が「佐西の浦(ささいのうら)」と呼ばれていたことが知れる
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厳島神主家の居城 桜尾城
桜尾城はいつごろできたのか。
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江戸時代に廣島藩で編纂された「芸藩通
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志」には,桜尾城は鎌倉幕府を開いた源 |
頼朝の弟範頼の子孫である吉見氏が築い
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たとある。 |
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江戸時代に廣島藩で編纂された「芸藩通」には,桜尾城は鎌倉幕府を開いた源頼朝の弟範 |
の子孫である吉見が築いたとある。 |
しかしいつたのかは不詳である。 |
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天神の常夜灯の油料
廿日市の湊を見下ろす天神山に鎮座する |
天神坊の鐘楼堂の横に常夜灯が残ってい |
ます。廿日市の問屋商人が・・・・・・ |
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開設14年にあたり、記事改廃。(2023/08/)
芸州廿日市津和野藩船屋敷生誕 津和野藩士
天文方渋川主水手附 幕府暦作御用手伝 堀田仁助掲載。
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