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<廿日市の成り立ち>
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古代の廿日市あたり

旧石器時代

 廿日市市内の旧石器時代の遺跡は、二ヶ所発見されている

@ 冠遺跡(かんむりいせき) -現 廿日市市吉和-

A 頓原遺跡(とんばらいせき) - 同上-

B 速谷神社境内から旧石器末期から縄文時代のはじめごろとされる安山岩製の「槍先形石器」が出土している。C廿日市町史通史編(上)P178-9行目に『宮島町の北側海浜部に形成された遺跡群などがある』とある。このころには廿日市周辺でも人の暮らしが見えてくるのである。

縄文時代

 およそ一万年前ごろ、氷河期の終わりに入り、次第に気温が高くなり、氷河が溶け始め、海面が上昇し、大陸と陸続きであった日本も、切り離されていき、現在の四島に分かれていった。瀬戸内海にも海水が侵入し始めてきた。こうして気候の温暖化と海水面の上昇という地球の変化に地形・動植物も影響されることになった。 広島湾沿岸部の海抜二〇〜三〇bの比較的海に近い円明寺遺跡(えんみょうじ)・利松住吉遺跡(としまつすみよし) (広島市佐伯区)には、貝塚が見当たらない。

@ 廿日市市地御前南町遺跡(はつかいちしじごぜんみなみまちいせき)-地御前-

海では貝や魚が取れ始め、山里にはクリ・クルミ・ドングリなどの木の実類があり、それまでの台地・洞穴の生活から、海辺の生活に移行し、地御前海岸に縄文期前・中期の人が住んでいた。これらの人々は海部(あまべ)と呼ばれ、また、この地域は海郷(あまごう)と呼ばれた。縄文後・晩期といわれる出土品
の中で注目すべきは、約100`離れている大分県国東半島の姫島産の黒曜石(こくようせき)の石器で、九州地方の土器文化の影響を受けたものも見つかっており、遠隔地との交流のあったことがわかる。
 

弥生時代

 人が米づくりを始めた時代である。稲作による定着が人口増加を生み、一つの共同体が形成された。現代の農村地帯と同様な諸問題 稲田の順番・水利・土地の境界の紛争等が起きた時、リーダーシップを発揮した者が出て、この者がやがて共同体の支配者となり、縄文時代にはなかった階層が生まれた。

@ 丸小山遺跡(まるこやまいせき)-廿日市市峯高二丁目 峰高第一公園附近- 

 弥生式前期の遠賀川式土器(おんががわしきどき)が、北九州から伊勢湾地方まで西日本一帯に見つかっており、このことは稲作が広まったことを示している。丸子山遺跡も弥生前期ころから稲作が始まっていた。宮内に弥生の人が住み米作りをはじめたのである。

A 高尾山遺跡(たかおやまいせき)-極楽寺山中腹 丘陵尾根標高二六b-
 弥生時代後期の高地性集落。広島湾一帯を見渡せることで、稲作・畑作ができる環境ではないことから、内海交通の要衝を見張る防塞(ぼうさい)的な性格をもった遺跡であるという。この弥生時代は、古代国家が成立する過程で集団同士の争いが始まった時代と云われている。

古墳時代

 三世紀の終わりから四世紀のはじめになると、弥生の共同体の階層化はさらに進み村相互間の支配と統合により、国が成立してきた。

@ 高砂古墳 -宮内-

   五世紀の頃の古墳。古墳の外形は定かでないが、内部に竪穴式石室、割竹形木棺を埋納したと推定される擴が掘られている。この地域を支配していたであろう豪族の最も古い古墳であると推定されている。宮内・原・平良に住み着く人が多くなり、ごあん山・伴丈木・宮迫・岩戸山古墳等の古墳が造られた。

佐伯部と佐伯郡 さえきべとさえきごおり

 佐伯郡の起源は日本書紀・景行紀に「日本武尊(やまとたけるのみこと)が東征より捕虜を連れ帰り、伊勢神宮に献じたところ彼等の粗暴な振る舞いに手を焼き、朝廷に献ずるも、幾外の諸国に分かち置いた。それが、播磨・讃岐・伊予・安芸・阿波の佐伯部の祖である」。

種箆郷 へらごおり

 承平年間(931〜937) 源順編纂の「和名抄」によると、佐伯郡には、養我・種箆・緑井・若狭・伊福・桑原・海部・噌濃・遠管・駅家・大町・土茂の十二郷ある。廿日市に関係あるのは「種箆」で 「へら」と読み、現在の「平良」に通じる。