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伊都岐嶋千僧供養日記
いつきしませんそうくようにっき
治承元年( じしょうがんねん)
1177年
厳島社頭(1)での行事を最も詳細に述べているのは「伊都岐嶋千僧供養日記」(2)である。 |
この記録は治承元年(1177)平清盛がその子宗盛をはじめ経盛・維盛・経正などの一族(3)以 |
下とともに厳島に参詣し、社頭において習礼(しゅうらい・・・予行演習)(4)・臨時祭・万燈会(5)・ |
千僧供養・一切経会(6)・引声(いんぜい)(7) などの諸行事を行ったさまを書きとめたものである。 |
その情景の大要を次に記してみよう。 |
十月十一日の亥時(いのとき・・・午後10時) 一行は厳島の社前に参着した。 |
翌十二日は晴天のなかで千僧供養の習礼(しゅうらい・・・予行演習)が行われた。 |
翌十三日も快晴で、まず本内侍・権内侍(8)に装束が贈られ、ついで右大将宗盛の勤仕により |
臨時祭が執り行われた。宗盛が舞人(9)・随身(10)・陪従べいじゅう (11)を前後に従えて行列を |
つくって松木御所(12)から大宮(13)に至り祓殿はらいでん (14)で修祓しゅうふつ(15) あり、つい |
で行列は客人宮(16)に至る。そこで供物(17)の準備ができたところで宗盛が膳部ぜんぶ (18) |
を供そなえ、つい内侍や舞人たちが、手から手に供物を受け渡ししながら神前に供えて拝膳(19) |
が終わる。ついで奉幣(20)、そして東遊あずまあそび(21) の舞が奉納されて、客人宮の参拝が |
終わる。次いで大宮に参詣する。その作法は客人宮の場合と同様に、御供(22)・奉幣・東遊を |
終えて退出し松木御所に帰った。夜に入って、大宮(23)の舞殿において神楽が行われた。 |
順序は逆になるが、昼から明日の千僧供養の予行演習として千僧の着座(24)が行われた。 |
その着座は大宮の舞殿を中心として南廊・北廊におのおの五百人座ることとされ、僧一人当た |
りに、半畳一帖を敷き、経机(25)一脚を据え、その上に法華経一部を置くこととし、夕方になっ |
て千僧のために供僧(26)が催された。 |
夜は万燈会が行われた。社殿のある三笠浜を囲むように突出した東の宮崎と西の西崎との間 |
を大鳥居の外方を通って結ぶ形で海中に棚を結い渡し、その棚に長さ五尺、口径三寸の松明を |
三尺間隔に一把ずつ上下二重に横たえて結びつける。また海を渡って対岸の浜に数十町にわ |
たって結いわたした棚に五尺間隔で同様に松明を結びつける。 |
さらに千僧の座の後に間ごとに大松明を立てる。こうして大がかりな松明に火を点じたので、耿 |
々(こうこう)たる炎は海面に映えてあたかも海底に火を敷きつめたようであった。この盛儀(27) |
を見ようと、聴聞の衆、千僧の所従(28)、結縁けちえん(29) に参集した人たちは板敷の上や |
浜を埋めつくし、また参会(30)した船は有浦および宮崎より西崎に至る海面に三重四重に舷 |
(ふなべり)を接し隙間なく舫(もや)(31)うという状態であった。 |
十四日も快晴で千僧供養が行われた。まず夜前と暁方に左方・右方の楽人(32)がおのおの |
神分乱声(らんじょう)(33)を奏し、千僧の行事が僧供を据え、また日中の僧供につき指図を与 |
える。卯剋(うのこく)(34)になると衆僧(35)たちが院の御所(36)の北面の部屋に参集し、また |
清盛や経盛らの上﨟(じょうろう)(37)は早朝より社殿に参着していた。所定の時剋になると右 |
大将宗盛が松木御所より随身兵仗(ひょうじょう)(38)を従えて社前に臨場するが、その際楽人 |
が乱声を奏し、獅子が出て舞台の傍らに伏せる。ついで振桙(えんぶ)(39)が奏される。ついで |
菩薩・鳥・胡蝶(こちょう)・舞人(まいびと)・妓女(ぎじょ)等が楽屋より出て、左方と右方に分かれ、 |
おのおの菩薩六人、鳥または胡蝶六人、妓女六人(特記)、舞人六人の順に大鼓を中心として舞台の両 |
脇に立ち並ぶ。やがて行列の先導をつとめる神官として、左方に束帯姿の佐伯依員と衣冠姿の |
佐伯助貞、右方に束帯姿の佐伯友貞と衣冠姿の佐伯助包が、おのおの口取二人をともなった |
獅子二人を従えて、それぞれの列(特記2)を引率して二列に並んで粥座屋(かゆざや)(40)のあたりまで |
行進する。そのあと楽人の奏する秋風楽(41)を合図に先導の神官がぐるりと輪をつくって舞台に |
向って行進をはじめる。そのとき行列お最後尾の鉦鼓(しょうこ)(42)のあとに、呪願(じゅがん)(43) |
をつとめる大臣法眼と導師をつとめる証明房法橋(ほっきょう)(44)および衆僧二十六人が続く。 |
行列は舞台の位置にもどり、獅子は再び舞台のほとりに伏し、先頭の神官以下は元のとおり楽屋 |
の前に並び立ち楽を奏するなかを呪願・導師(45)が三礼をする。これにならって衆僧たちが惣礼 |
をし、ついで導師が高座に登る。そこで楽が止まる。 |
ついで供花(くげ)が行われ、菩薩十二人の伝供(てんぐ)(46)の形で供えられる。次に菩薩・迦 |
陵頻(かりょうびん)・胡蝶の舞の奉納が行われ、その間に堂童子(どうどうじ)(47)が花筥(はこ) |
を散花師(さんげし)(48)にくばる。次に供養があり、終わって再び菩薩・迦陵頻・胡蝶の舞が供え |
られる。 |
さて次がいよいよ行道会(ぎょうどうえ)(49)である。まず舞人・楽人・菩薩・鳥・胡蝶・妓女等が |
楽屋より出て、さきのように並び立つ。ここで散花師を先頭とし衆僧が舞台に昇り並び立つ。そこで |
楽人が渋河鳥の楽を発すると、先導の神官が師子以下を引率し二列に並んで衆僧のなかを分け |
通る。左方の列は、南廊を通り打橋から浜に下り、それから新作の廊および新作の縁道を通って |
宮崎の陸地に着き、松木御所の傍らを通り有浦の井の傍ら経て比叡社の壇角より小舎人(ことね |
り)所屋の傍らを経、扇橋を渡り打橋より廊に入り楽屋傍らで右方の到着を待ち、並んで舞台を経 |
てもとの位置に帰る。右方の列は北廊を通り朝座屋(50)前の庭に下りて、扇橋の上で左方の列 |
の最後尾に続き、同じ経路を通って比叡社の壇角より御読経所(みどきょうしょ)の前を経て朝座 |
屋の前より元のように廊に入り、廊の角で左方の行列の調(ととの)うを待って、並んで舞台を経元 |
の位置に帰る。この行道では左方・右方ともに、衆僧は鉦鼓(しょうこ)の後に続き、千僧の衆は衆 |
僧の次に続いて廻るのである。 |
行道会が終わると、金鼓の合図で讃(さん)があり、次に妓女舞として五聖楽を舞う。 |
また金鼓を打って次に梵音があり、次に妓女(51)の舞として狛桙(こまぼこ)が舞われる。 |
次に錫杖(しゃくじょう)がある。この間に堂童子が花筥(はこ)を取りかたづける。 |
次に導師の説法が行われ、そのあと布施が贈られ、導師が高座より降りる。ついで舞楽の左右 |
各五曲が舞われ、舞人たちに纒頭(てんとう)(52)が贈られ、楽人たちにも単衣(ひとえ)一領ず |
つが贈られた。 |
十五日も続いて晴天の下で恒例の一切経会が行われた。その作法は例年のとおりであるが僧数 |
は三〇口とした。初後の乱声、振桙(えんぶ)、衆僧導師迎、導師登高座と前々のとおり行事が進 |
められ、次に供花(ぐげ)があり、それが終わると十種供養の具を菩薩・鳥・胡蝶が手に手に捧げな |
がら伝供する。伝供が終わると鳥は南の草敦+公(そうとん)に、胡蝶は北の草敦+公(そうとん)に |
座す。次に菩薩の舞、さらに鳥・胡蝶のそれぞれ舞いが奉納され、その間に堂童子が花筥(はこ) |
をくばる。ついで行事がはじまるが、その道順は前日のそれと別で恒例の道順による。引頭は左 |
方は監物(けんもつ)と物申(ものもうし)友貞、右方は兵衛尉と助貞がつとめた。行道の次ぎは讃 |
(さん)、ついで妓女の舞の五聖楽、また梵音(ぼんおん)ついで妓女の舞の狛桙(こまぼこ)、さら |
にまた梵音があり、ついで導師の表白(ひょうばく)があり、そのあと布施がひかれる。 |
ついで導師が高座を下り続いて左右四番の舞楽が舞われ、終わると楽人が罷出音声を奏し、つい |
で楽人に纒頭(てんとう)がくばられた。 |
十六日は晴天で、暁から引声(いんぜい)をはじめたが、清盛もこれに加わった。帰京の平安を祈 |
るための発願であった。 |
二十九日は娘(じょう)御前の舞御覧があった。舞人たちは襲装束(かさねしょうぞく)、楽人たちは |
布衣を着用した。娘(じょう)御前が参宮を終えたのち、振桙(えんぶ)・春鶯蘇(すんおうてん)・新鳥 |
蘇(しんとりそ)の諸曲の上演があり、ついで妓女舞の五聖楽・振桙(えんぶ)があり、さらに男舞台 |
の三台・林歌・泔州・敷(散カ)手・抜頭(ばとう)・納蘇利(なそり)と続き、そして罷出音声の奏楽裡 |
に幕を閉じた。 |
この日の舞御覧には維盛の弟清経に比定できる平三殿が現地の人びととともに舞人の列に加わっ |
ていること、この日演ぜられた曲の中には、「今度習留」と付記されたものが少なくないことが注目 |
されるところである。 |
参考文献:「広島県史 原始・古代」 (二 厳島文化、2平氏の厳島信仰、社頭での行事) 広島県より引用 |
「伊都岐嶋千僧供養日記」の詳細は,「広島県史 古代中世資料編Ⅲ」 P1472-1476 参照 |
◇雅楽についてもっと知る◇ (「雅楽」 『フリー百貨事典 ウイキペディア(Wikipedia) 日本語版』 取得 2009年11月5日(木) 最終更新 2009年10月15日 (木) 15:26 ) |
[注] -迷 解釈- | |||
(1) | 厳島社頭 | いつくしましゃとう | 厳島は日本三景の一つで、世界遺産に指定されてもいる。広島湾西部の廿日市市大野の対岸から連絡船で10分に位置する。神の島とされ、江戸時代までは島内での出産、埋葬は禁忌であった。平清盛をはじめ平家一門・公家社会に厳島信仰が広まり、厳島神社は隆盛を極めた。 社頭は社殿の前のこと。 |
(2) | 伊都岐嶋千僧 供養日記 |
いつきしませんそう くようにっき |
治承元年(1177)中宮徳子を擁し平清盛一門が厳島神社に参詣したときの情景を記したものである |
(3) | 平氏一族 | へいしいちぞく | 伊勢平氏は、承平天慶の乱に功のあった平貞盛の子、平維衡よりはじまる平氏一族の一つ。平忠盛の死後、平清盛が継ぎ、保元の乱・平治の乱を制し、従一位・太政大臣にまで昇進して天下人となり、「平氏(へいし)」一族の栄華を築き上げる。 |
平清盛 | たいら の きよもり | 平安時代末期の武将。公卿。 | |
平宗盛 | たいら の むねもり | 平清盛の三男 | |
平経盛 | たいら の つねもり | 平清盛の弟 | |
平維盛 | たいら の これもり | 平清盛の嫡孫で、平重盛の嫡男 | |
平経正 | たいら の つねまさ | 平経盛の長男 | |
(4) | 習礼 | しゅうらい | 重大な儀式があるとき、その礼式の予行練習を行うこと |
(5) | 万燈会 | まんどうえ | 灯明を供養することで世を照らし、闇を取り除く行事 |
(6) | 一切経会 | いっさいきょうえ | 一切経(お経を一同に集めたものをいう)を供養するために行う法会で、有名なお経に西遊記の玄奘三蔵法師の訳した般若心経がある |
(7) | 引声 | いんぜい | 高低・伸縮を加えた声で念仏・経文・偈頌(げじゆ)などを唱えること |
(8) | 内侍 | ないし | 治承元年(1177)平清盛一門の参詣に厳島神社社頭で千僧供養や一切経会が行われた際、舞楽を演じた内侍の名前が釈迦・弥陀・地蔵・普賢・文殊・薬王といった仏や菩薩の名で釈迦内侍・弥陀内侍・・・・などと呼んでいた。 |
(9) | 舞人 | まいびと | 舞を舞う人。ぶにん。まいにん |
(10) | 随身 | ずいじん | 平安以後、勅宣によって貴族の外出時に護衛として随従した近衛府の官人 |
(11) | 陪従 | べいじゅう | 貴人などの供として従う人 |
(12) | 松木御所 | まつきごしょ | 臨時に建造された遠く京から船で参詣した院・中宮・平清盛一門の宿泊所 |
(13) | 大宮 | おおみや | 「本社」。 「大宮」という語は神社を敬っていう言い方の一つ。 |
(14) | 祓殿 | はらいでん | 祓はらいをするための殿舎 |
(15) | 修祓 | しゅうふつ | 神事に先立って、神職が行う清めの儀礼。しゅうばつ ともいう |
(16) | 客人宮 | まろうどのみや | 東廻廊の入口からすぐの社殿。天忍穂耳命(あめのおしほみみのみこと)など5男神が祀られている。 |
(17) | 供物 | くもつ | 神仏に、供養(くよう)のためそなえるもの。 |
(18) | 膳部 | ぜんぶ | 膳にのせる料理。 |
(19) | 拝膳 | はいぜん | 食膳を供えること |
(20) | 奉幣 | ほうへい | 神前に幣帛(へいはく)を捧げること |
(21) | 東遊 | あずまあそび | 東国地方の風俗歌に合わせて舞う民間舞踊であったが、平安時代に雅楽の一曲として形式が整えられた。舞人は四人または六人。歌手八人の楽で演奏する。舞に駿河舞・求子(もとめご)舞があり、二つを舞うと諸舞(もろまい)、後者のみを舞うと片舞という。中世には廃れたが、江戸時代に再興され、宮中の祭儀や神社の祭礼に行われている。東舞(あずままい)とも。 |
(22) | 御供 | ごく | 神仏に供える物。お供物(くもつ)。 |
(23) | 大宮 | おおみや | 神社の敬称 |
(24) | 着座 | ちゃくざ | 席に着く事 |
(25) | 経机 | きょうづくえ | 読経(どきよう)の際、経の本・経の巻き物を載せる机。 |
(26) | 供僧 | ぐそう | 本尊に仕える僧。神社に仕える社僧。供奉僧(ぐぶそう)。 |
(27) | 盛儀 | せいぎ | 盛大な儀式 |
(28) | 千僧の所従 | せんそうのしょじゅう | 従者 |
(29) | 結縁 | けちえん | 今すぐ仏道に入って悟りを開くことができなくても、いつか仏道に入るために、仏教と縁を結ぶこと。 |
(30) | 参会 | さんかい | 会合に出席すること |
(31) | 舫う | もやう | 船一艘が錨(いかり)を入れ、この船に他の船を順次つなぎ合わせて一緒に停泊すること。 |
(32) | 左方・右方の楽人 | さほう・うほうのがくにん | 唐を経由して伝来したものを左方舞(左舞)と言い、伴奏音楽を唐楽と呼ぶ。朝鮮半島(高麗)を経由して伝来したものを右方舞(右舞)と言い、伴奏音楽を高麗楽と呼ぶ。 厳島神社の場合本社から大鳥居のほうを見て左側が左方舞、右側が右方舞の楽房である。 |
(33) | 乱声 | らんじょう | 舞楽の前奏曲・登場楽の一類。竜笛(りゆうてき)または高麗笛(こまぶえ)・太鼓・鉦鼓(しようこ)で奏する |
(34) | 卯剋 | うのこく | 午前六時頃。また午前六時から午前八時。または午前五時から七時。 |
(35) | 衆僧 | しゅうそう | 同じ教えを信奉する人々の集団をいう |
(36) | 院の御所 | いんのごしょ | 京から船で参詣した院の厳島在嶋中の住居 |
(37) | 上﨟 | じょうろう | 高貴な人に使える身分の高い人 |
(38) | 随身兵仗 | ずいじんひょうじょう | 平安時代以降、貴人の外出のとき、警衛と威儀を兼ねて勅宣によってつけられた近衛府の官人 |
(39) | 振桙 | えんぶ | 振鉾えんぶとも。舞楽の始めに必ず行われるもので、古代中国(周)の「武王」が天下を平定した際の故事に基づく、儀式的な舞楽。 |
(特記) | 妓女六人 | ぎじょ | 黒内侍・普賢内侍・文珠内侍・弥陀内侍・萬壽内侍・ 多門内侍 |
(特記2) | それぞれの列 | 別の列の妓女六人 尺迦内侍・千歳内侍・乙内侍・地蔵内侍・弥陀内侍・薬王内侍 |
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(40) | 粥座屋 | かゆざや | 社家・供僧・内侍・会合・雑餉ざっしょう の所 |
(41) | 秋風楽 | しゅうふうらく | 雅楽の一。左方の新楽。盤渉(ばんしき)調の中曲。常装束で舞う平舞の四人舞。 |
(42) | 鉦鼓 | しょうこ | 仏教で、念仏をするときにたたく、青銅製の丸いかね。鉦(かね)。 |
(43) | 呪願 | じゅがん | 法会の時、施主の願意を受けて唱えられる短い祈り・願文 |
(44) | 法橋 | ほっきょ | 僧位の第三で、法印・法眼(ほうげん)に次ぐ。「法橋上人位」の略 |
(45) | 導師 | どうし | 法会に際して、集まった僧の中心となり儀式を行う僧 |
(46) | 伝供 | てんぐ | 大きな法要の折り、仏祖前に供物を伝送する儀式をいう。仏祖前に縦列を作り、供物を順次手送りし所定の場所に供える |
(47) | 堂童子 | どうどうじ | 法会などの行われる際、花籠(けこ)を配る役の者 |
(48) | 散花師 | さんげし | 仏のまわりをめぐりながら花を地に散らす |
(49) | 行道会 | ぎょうどうえ | 列を作って読経しながら本尊や仏堂の周りを回って供養礼拝する |
(50) | 朝座屋 | あさざや | 社家・供僧・内侍・会合 の所 |
(51) | 妓女 | ぎじょ | この日記では厳島神社の巫女…内侍は妓女と記された。 千僧供養 左方 黒・普賢・文珠・弥陀・万寿・多門 右方 釈迦・千歳・乙・地蔵・弥陀・薬王 娘御前舞御覧 五聖楽 釈迦・千歳 狛桙 釈迦・千歳・多門・万寿 |
(52) | 纒頭 | てんとう | 褒美ほうびとして与えること |
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参考文献: 広島県史 原始・古代/宮島町史 特論編・建築編/広島県神社誌/厳島誌 重田定一/ | |||
参考Web: Yahoo!辞書/ウィキペディアフリー百科事典 |