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藤沢周平三屋(みつや)清左衛門残(せいざえもんざん)日録(じつろく)の世界から

−舞台と思しき庄内藩とは−

 
 藤沢周平
三屋清左衛門残日録」の舞台は特定されているわけではない。
しかし、作者は山形県鶴岡市の出ゆえ、モチーフを東北の日本海に面した庄内藩を舞台に求めた可能性は否定できないと思われる。文中の「はたはた」の馳走などは、西国では馴染みの無いものであるし、また、目次「ならず者1」P241『支藩の松原城下』の支藩松原は、庄内藩支藩の(出羽)松山藩に近似しているなどがその根拠である。「三屋清左衛門残日録」は、あくまでも虚構の上に成り立つ時代小説である。しかしそこには、文面から(かも)し出される武士の世界、武士の生き様(ことに老後の生き方)に思いを巡らすと、平成の世に生きる現代人に訴えかけてくるものがあるような気がする。
 タイトルの「残日録」は清左衛門の日記の題名でもある。
三年前に妻の喜和が病死(P13)、先代の用人職を務めていたが、先代藩主が長患いのあと死去し(P10)、新しい藩主は新しい側近をとの考えから、勤めにやや疲れていた四十九歳のころ、隠居の決心をする(P13)。五十一歳ころ、新藩主に隠居を願い出(P10)、先代に重用されていた清左衛門は、国元での屋敷を継続して住むことと、隠居部屋の普請を手配する好待遇を受けたのである(P11)。清左衛門が思い描いた隠居は、悠々自適の暮らしを望んだが、全く逆の、世間から隔絶された自閉的な感情に襲われるのである。隠居することを、世の中ら一歩退くことと軽く考えていたが、実際には、清左衛門の生き方(暮らしと習慣)のすべてを変えることだったのである。世間の方からの隔絶に、異様な空白感が奇妙な気分にさせ、気が落ち着かないでいた(P14)。
 三屋清左衛門は、惣領又四郎(P9)に家督相続つまり家と同時に財布も譲った隠居生活に入ったと思っていた(P15)が、又四郎の指示と云う嫁の里江が祝い事の掛りの報告を口実に、離れの隠居部屋の様子を見に来る。恐らくは隠居部屋に引き籠る義父を案じ、出来た嫁 里江が心配して取った行動であろう。清左衛門は里江に日記を書こうと思い立ったこと、また「残日録」とは「日残リテ昏(く)ルルニ未(いま)ダ遠シ」の意味で、残る日数を数えようというわけではないことを話す(P16)。一線からリタイアしてもまだ人生の残りは長い。隠居後の人生は「余生」ではなく、第二の人生であり、その時、何をするかが重要であるという意味のようである。

 舞台を「庄内藩」に仮定し、これから清左衛門が生きてきた庄内の歴史的興味を掘り下げていきたい。海・山に恵まれた廿日市と似たところがあってなぜか共感を覚える地なのである。尚、別項にて、「三屋清左衛門残日録」内の難解な漢字の読み方・ことばの意味等の「用語録」を作成し、「残日録」の世界を享受し易くなるよう試みている。

■ 庄内藩
 羽前国(うぜんのくに)は山形県である。山形MAP1庄内藩(鶴岡藩、大泉藩)
出羽松山藩(庄内藩支藩)
新庄藩   上山藩
山形藩   天童藩
長瀞藩   米沢藩
米沢新田藩(米沢藩支藩)
のこれら九藩よりなる羽前国の北西部に位置する庄内藩は、羽前国(旧出羽国)、田川郡庄内(現在の庄内地方・山形県鶴岡市)を領した譜代大名(註一)の藩である。正式には城下町名を取った鶴岡藩(つるおかはん)であり、庄内藩は通称である。藩庁は鶴ヶ岡城。枝城として酒田市に亀ヶ崎城を配置した。明治時代初頭に大泉藩(おおいずみはん)と改称した。 庄内藩は、元和八年(一六二二)最上氏改易後、信濃国松代一〇万石藩主酒井忠勝(ただかつ)が一三万八〇〇〇石で入部(註二)。寛永九年(一六三二)熊本藩主加藤忠弘が罪により庄内藩に預けられ、村山郡左沢(あてらざわ)に一万石を与えられたが、預人(あずけにん)(註三)を遠所に置くに忍びず、櫛引郡(くしびきぐん)丸岡一万石を願い出で、幕府から替地として左沢(あてらざわ)一万二〇〇〇石を与えられたので、知行高は一四万石となった。庄内藩支藩の出羽松山藩(まつやまはん)は、庄内藩初代藩主・酒井忠勝の三男・忠恒(ただつね)が、正保四年(一六四七年)庄内藩領より分与された新田を領有した藩である。出羽国飽海郡(あくみぐん)松山(山形県酒田市)に居所を構え、明治四年(一八七一)廃藩置県まで存在した。石高は二万五千石(立藩時は二万石)。明治二年(一八六九年)には松嶺藩(まつみねはん)と改称した。

  [註](一)徳川将軍家により取り立てられた大名のうち、親藩及び、外様大名と、その支藩(分家)を除いたもの
     (二)領主・国司などが、その領地・任地に初めてはいること。入府。
     (三)大名や旗本で、罪を得て諸大名の家に預けられて監禁された人。

    山形MAP2
               参考:山形県内市町村ページ

  

  
 
  
  加工組織図 参考:「藩史大事典 第一巻北海道・東北編〈庄内藩〉」 雄山閣出版

■ 職
 庄内藩の家臣団は家中(かちゅう・・・侍)約五〇〇人と、給人(きゅうにん・・・下級武士)約二〇〇〇人からなる。家中の知行制は蔵米知行制(くらまいちぎょうせい)(註四)、扶持米(ふちまい)(註五)は米札(べいさつ)(註六)で支給された。

役職相当の石数は
亀ヶ崎、家老 一〇〇〇石以上
組頭、小姓頭  六〇〇石以上
番頭、用人    四〇〇石以上
郡代        三〇〇石以上
供頭(一〇〇石以上)以上を行列以上といい、役職相当の石数不足の時は、加増や役料で補填。
尚、中老は元禄七年(一六九四)初めて設定された。

郡代  三〇〇石以上の家中から選ぶ  二〜三人  農政と財政を総括
郡奉行 一〇〇石以上の家中から選ぶ 定員は四人で組分け
代官  一〇〇石以上の家中から選ぶ 郷・通に二人ずつ、計一六人
大庄屋 初め大肝煎(おおきもいり)といい、町村支配として各組に一人ずつ、郡奉行と代官の両扱い
文化十二年(一八一五)、郡奉行と代官の職務内容を改革し、大庄屋を代官扱いのみとした。
文化元年(一八〇四)村役人の組頭は五人組頭と混同しやすいので廃止し、組頭役を置きたい村は添役とすることとした。村役は原則肝煎(きもいり)・長人の二役制となった。

 [註」(四)大名から石高だけの名目的な知行地(給地、給知ともいう)を給付されてはいるものの、知行地を給付
    された家臣(給人という)は、土地と農民に対する個別的・直接的な支配権はまったく認められず、藩庫に収
    納された蔵米を知行高に応じて支給される(これを物成渡(ものなりわたし)という)、江戸時代独自の知行
    形態。

    [註」(五)扶持として給与される米。俸米(ほうまい)。
    [註」(六)米を兌換(だかん)準備としたもので、米の量とその金銭に換算した額が記してある。米券。

■ 津・米蔵
 年貢米は各村の郷蔵(ごうぐら)(註七)に納められ、鶴岡城内の七ッ蔵、加茂の津の加茂蔵、酒田の酒田蔵に送られた。七ッ蔵の米は主として藩士の飯米に当てられ、加茂蔵、酒田蔵の米は主として移出に向けられ、加茂・酒田の津から北前船の西回り航路で江戸、大坂へ運ばれた。

 [註](七)郷村などで、年貢米を上納するまで貯蔵し、また凶作に備えて穀類を保存した共同倉庫。

■ 庄内藩(酒井藩)江戸上屋敷跡
 上屋敷は和田倉内(千代田区丸の内一丁目)にあったが、明暦三年(一六五七)正月十八日から翌日の二日間江戸が大火に見舞われたあの「明暦の大火」により焼失したため、同年三月三日大手前、滝の口に移転。その後移転を二・三回繰り返し、慶応四年(註八)三月神田橋の上屋敷は終焉を迎えた。
 皇居前、日経新聞のそばに当る千代田区大手町一丁目にある「庄内藩酒井家神田橋上屋敷跡標柱」が昔を今に伝えるのみである。

 [註](八)「慶応四年をもって明治元年とする」としているため旧暦1月1日に遡って適用される 。        

■ 中屋敷
 浅草、巣鴨、両国、下屋敷は下谷、本所とこれまた移転し、それぞれ上屋敷と同じ運命を辿る。

■ 藩の武術
 多岐にわたる武士の心得。各武術・流派はいかなる事情があるのか、その多くが消え去り、新たに生まれている。

「延宝六年(一六七八)」
砲術         外記流・種ヶ島流・大間流・米沢流
弓術         吉田流・日置流   指南役(日置流)金谷橋六右衛門・大瀬三右衛門
鑓術(そうじゅつ)  宝蔵院流十文字鑓ほか
町見術        会山流
兵法          新九流・心陰流ほか
捕手          至心流
軍法         武田流
馬術          人見流・大坪流

 「元禄五年(一六九二)」
弓術         大倉流・印西流・雪荷流・竹林流  指南役(大倉流)金谷橋六右衛門・
            指南役(印西流・雪荷流・竹林流)大瀬三右衛門
砲術         長谷川流・当流
兵法         心信柳生流
鑓術         鑓加極流ほか
居合         景流・心信流

 「文化年間(一八〇四〜)
軍法         長沼流
砲術         萩野流

■ 参勤交代
参勤道の里程      一三〇里二四町(約五一三`)(註九)

参勤道中と宿泊地   ◇文化三年(一八〇六) (一四泊)
                (江戸)-草賀-幸手-間々田-宇都宮-太田原-白坂-須賀川-二本松-桑折-関-ノ山-楯
                 岡-清水-清川-(鶴岡)

            ◇文化八年(一八一一)
                 故あり参勤道中を幕府の許可なく変更、上ノ山から米沢、板谷峠(註十)を抜け福島に
                 至ったため、幕府の不興(ふきょう・・・機嫌をそこねる)を買い、家老・中老各一人を罷
                 免(ひめん)。

               ◇文政六年(一八二三) (一二泊)
                 (鶴岡)-清川-清水-楯岡-上ノ山-関-福島-郡山-白川-大田原-宇都宮-古河-越谷-
                 (江戸)

人馬の惣数       ◇文政六年(一六六六)の参勤道中の時に、町方・郷中から用立てされた人馬の惣数は
                 人五六六人、馬二七二疋(き・ひき)、内一〇七疋は町馬、一三一疋は郷馬であった。

【里について】
 里(り)は、尺貫法における長さの単位で,長い距離であるので直接計測するのは困難である。そこで、1里歩くのにかかる大体の時間から、その時間に歩いた距離を1里と呼ぶようになった。
江戸時代には、様々な里の存在は認めた上で、36町を標準の里とすると定めた。
明治二四年(一八九一年)に制定した度量衡法では、1里=36町とし、それ以外の里の使用を禁止した。

1町=60間×6(尺/間)=360尺であるので
1里=36町×360(尺/町)=12960尺となり、
1尺は10mの33分の1と定められたので1尺=(10/33)m、
1里=12960尺×(10/33)(m/尺)=3.927km、

◇尺(しゃく) 尺貫法における長さの単位の基本。
明治二四年(一八九一)に度量衡法により、10mの33分の1 と定められた。
 1尺=10寸= 10/33≒0.30303m

◇間(けん)
 1間 = 6尺=60/33≒1.818m

◇1丈(じょう)  100mの33分の1
 1丈 = 10尺=100/33≒3.03m

◇町(ちょう)
 明治二四年(一八九一)に度量衡法により、11町=1.2km と定めた。
 1町=1.2km÷11町×1000m≒109.09m
 1km=11町÷1.2km≒9.16町
 1町=60間=360尺≒109.09m 

◇里(り)
 1里はおおよそ半時(=1時間)で歩ける距離。
 1里=36町=12960尺≒3,927m≒3.927km

 [註](九)(130)+(24/36町)里≒130.7x3.927km≒513km
 [註](十)山形県南部、吾妻山北麓の峠。標高755メートル。米沢藩の参勤交代路として利用された。直下を奥羽
    本線のトンネルが通る。

■ 庄内特産
飽海郡〔あくみぐん〕
  遊佐町〔ゆざまち〕  鮭加工品・磯たこ・赤鶏ハム・赤カブ漬け・はちみつ・カキ
酒田市〔さかたし〕    船箪笥・民田茄子・藁納豆・地酒・庄内米・刈屋梨・メロン・イチゴ・赤ねぎ・寒鱈・どんが
               ら汁、
東田川郡〔ひがしたがわぐん〕
  庄内町〔しょうないまち〕 庄内米・庄内柿・きのこ・漬物・出羽路どり・
  三川町〔みかわまち〕  メロン・しいたけ・へちま水・庄内米・里芋・うどん
鶴岡市〔つるおかし〕     庄内米・清酒・砂丘メロン・庄内柿・だだちゃ豆・民田茄子・

■ 紅花
 末摘花(すえつむはな)は「紅花」の古名で、源氏物語 第六帖に登場する。
「紅花」の特産地は山形市、村山地域の西村山郡 河北町(かほくちょう)、置賜(おきたま)地域の西置賜郡 白鷹町(にしおきたまぐん しらたかまち)ほかで、昔から、最上川中流域の土地が極めて肥沃であり,また盆地の特性として朝霧や朝露が起きやすく, 紅花の栽培に非常に適した土地である。
 羽前国(うぜんのくに)では、赤く紅を差したり、衣裳の紅の染めの元となった紅花の栽培は、天正年間(一五七二〜一五九二)に栽培され、四人の農民門徒が紅を納めたと山形県西村山郡河北町谷地庚57 安楽寺に残る志納金受取状に記されている。直接指で口紅を塗る動作を紅を差す(べにをさす)」と表現するが、これは昔は薬指のことを「紅差し指」とも呼んだことからくる。

 江戸時代に京都で作られた上質の紅は「京紅」と呼ばれており、同じ重さの金に匹敵する価値を持つ高級品であった。その京紅の原料となる最上紅花を栽培していた羽前国(うぜんのくに)において、寛文年間(一六六一〜一六七三)には村山地方全体でおよそ五〇〇駄であった。享保年間(1716〜1673)には600〜700駄であった。一駄(いちだ・・一頭の馬に積む量)は1袋にして重さ三二貫目(約二一.六キログラム)で、幕末で一〇〇両もしたという。紅花で財を築いた商人が山形、天童、河北(かほく)の谷地、寒河江(さがえ)に多かった。

■ 最上川と北前船西廻り航路
最上川は、米沢市南部に位置する西吾妻山(標高二〇三五M)を源に、奥羽山脈と出羽丘陵、越後山脈に挟まれた米沢盆地・山形盆地を抜けて北上、新庄盆地で進路を西に変えて最上峡を抜け、庄内平野を経て酒田市にある河口から日本海に注ぐ、山形県全域を貫く一級河川である。静岡県の富士川、熊本県の球磨川と並び、日本三大急流のひとつに数えられている。
 近世、庄内藩では、この最上川の舟運により、米や内陸の紅花等を河口の酒田の津へ集積し、これらを北前船(註)を使い、東廻り航路で上方や江戸へ輸送することで酒田の津は発展していった。また米は酒田港と加茂港から移出され、蝦夷地からは海産物が移入された。寛文十二年(一六七二)になると、河村瑞賢による西廻り航路が整備されたことにより、東廻り航路、蝦夷地航路と合わせ海上輸送が隆盛を極めることになった。 
 村山地方の最上紅花は大石田(現北村山郡大石田町(きたむらやまぐん おおいしだまち)まで駄走(だそう)して、大石田から川舟に積むのが慣習であった。この慣習は、大石田問屋の河川運搬独占によるものであったため、漆山(現山形市)の商人が公認流通路に対する在方荷主の不満が起こり、置賜(おきたま)地区と接する村山地域の南部にあり現上郷(かみごう)ダムの右岸の山形県西村山郡朝日町大字上郷(あさひまち かみごう)の上郷-酒田直送を試みたこともある。
 なぜ費用対効果の効率の悪い大石田までの駄走を堅持したのか。それは、紅花の駄送によって、天童・楯岡(たておか)・尾花沢などの宿駅を保護する、というねらいがあったようである。 
 大石田から最上川水運を利用して酒田の津へ集積された紅花は、酒田から北前船が西廻り航路で敦賀の津に至り、敦賀からは駄走して琵琶湖北岸の塩津か海津に運び、さらに琵琶湖を再び湖船に積んで大津まで運び、大津から淀川を下って京都に至るという輸送ルートであった。もし万が一商品に過不足があれば、荷主と京の紅問屋で精算する慣わしであった。紅花の返り荷として、京文化の紅花染めの反物を使ったお錐様(ひなさま)、仏像などの工芸品をはじめ上方の衣類、瀬戸内海の塩、鉄、砂糖などの品々を積み込んできた。こうして上方文化が最上川を遡り、羽前内陸部へと浸透していったのである。
 米千石の陸上の駄走(だそう・・馬による輸送)では、馬一二五〇頭(四斗入米二俵)・馬子一二五〇人を要するが、千石船ではその輸送コストは駄送とは比べるに値しない程の効果をもたらした。東廻りでは酒田-大坂-江戸の距離四一七里、回漕米運賃 米一〇〇石につき金二二両二分であったが、西廻りでは距離713里と東廻りより距離に於いて差があったが、米の運賃一〇〇石につき金二一両と低価であり、現在の物流の根幹をなす長距離輸送の基本理念は、このころに見ることが出来、そのノウハウは今に引き継がれている。

■ 奥の細道  
◇弘誓山養泉寺(こうせいざんようせんじ)

 芭蕉が「奥の細道」行脚で元禄二年(一六八九)五月十七日(新暦七月三日)から五月二十七日(新暦七月十三日)まで十一日ほど、最上川舟運の要所・大石田に隣接し、紅花など諸物品の集散地として繁栄した尾花沢の紅花問屋の豪商であり、俳人であった島田屋鈴木清風を訪ねた際、この寺に七日間滞在する。
   すずしさを我やどにしてねまる也    芭蕉

◇宝珠山阿所川院立石寺 (ほうじゅさんあそかわいんりっしゃくじ)

 昔は「りゅうしゃくじ」、今は普通「りっしゃくじ」と読まれる。通称「山寺」。 貞観二年(860)に第五十六代清和天皇の勅願によって慈覚大師円仁が開山したと伝えられる。天台宗。
芭蕉と曽良が元禄二年五月二十七日(新七月十三日)未の下刻山寺に着き参詣し、麓の坊(預里)へ宿泊する。
   閑さや岩にしみ入蝉の声     芭蕉