古刹(こさつ) 曹洞宗 応龍山洞雲寺(おうりゅうざんとううんじ) 花祭り


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旧暦4月8日

廿日市市佐方1071-1  

享元年(1487年)、今から521年前、厳島神社神主藤原教親のりちか・宗親むねちか 父子が、当時、西の京といわれて文化の中心であった周防の龍文寺(りゅうもんじ)の金岡用兼禅師(きんこうようけんぜんじ)を招き開山した神主家の菩提寺です。

それは周防の龍文寺という寺は、守護大内氏の守護代で大内氏の重臣であった陶氏(すえし)の菩提寺であり、永享元年(1429)に陶氏五代盛政によって建立されたものである。代々の陶家菩提寺の元住職が、弘治元年(1555)十月朔日(さくじつ1日)毛利元就との厳島の合戦で破れ,討ち死にした若き武将陶晴賢(すえはるかた)の眠る洞雲寺の開祖であったという、なんとも不思議な巡り合せではある。
                        
釈尊の降誕を祝す法会

お釈迦様の誕生日を祝う縁日である(旧暦4月8日)
釈迦(ゴータマ・シッダッタ)が旧暦の4月8日に生まれたという伝承に基づく。
本堂前に生花で飾られた花御堂
はなみどうが設置され、水盤上に誕生仏像を安置し、参詣人が誕生仏像の頭上から竹の柄杓で甘茶をかけて祝う。この甘茶を飲むと邪気(じゃけ・・・物の怪(け)。また、病気)を払うといわれる

祭礼がいつ頃から行われるようになったかなどは不明のようである。
花御堂や誕生仏は江戸末期から洞雲寺に伝わっている。
旧暦4月初旬、冬から草木も息吹く春を向かえ、「農家之本業」を重んずる村・・・佐方では地域の農事暦や 「七十二候」・・・気象の動きや動植物の変化を知らせる短文になっている・・・と現実により、農事を中心とした農耕作業を始める重要な時節に行われた花祭りを契機とし、古くはこの日から、苗代田の準備が始められていたという。

戦後昭和20年代、子供の頃境内の両側に屋台が連なり、人でごったがえすほど、それはそれは多いに賑わったと年配の方は云われるのである。


またこの日は、広島県指定重要文化財の公開もされるようである。


七十二候 (しちじゅにこう) については
こちら
賓頭盧尊者 びんずるそんじゃ

「おびんずるさま」 別名 「なでぼとけ」

六羅漢の第一。阿羅漢果を得たが、神通力をもてあそんで釈迦に呵責かしやくされ、涅槃ねはんを許されず、釈迦の入滅後も衆生しゆじようの救済にあたった。白髪と長眉ちようびの姿で示される。禅寺でも聖僧としてまつった(後に文殊(もんじゅ・・・智慧ちえ をつかさどるとされる菩薩)に代わられた)。

日本では堂の前に置き、これを撫でると除病の功徳があるという俗信が広まった。


賓頭盧尊者については
こちら
門前には花祭りにちなみ、花や植木の市があり、その先に金魚すくい、佐方小学校とのT字交差には、ファーストフード露店などが参道に軒を連ね、子供たちは縁日を楽しんでおり、閑静な普段の様はなく、賑やかであった。。
参詣したのが夕方5時を過ぎていたので、帰る途中何軒かは露店の店じまいを始めていた。


戦後のまだ貧しかった頃の昭和20年代、子供の頃参道の両側に露店が軒を連ね、人でごったがえすほど、それはそれは多いに賑わったと年配の方は懐かしそうに話されるのであった。

参詣路の左右の田んぼのあぜ道に枕木が2本のぞいている。これは、戦中満州への「弾丸列車」の建設予定地の跡だった。