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後白河院(ごしらかわいん)
(天皇在位1155−58年、1192年没)
同母兄・崇徳上皇(すとくじょうこう)に今様の歌い過ぎで、3回ものどをこわした「今様狂い」と称されるほどの遊び人であり、「文にあらず、、 | |
武にもあらず、能もなく、芸もなし」と酷評されていたという。後白河院は、嘉応元年(1169)頃、『梁塵秘抄』(りょうじんひしょう)と今様歌謡の | |
口伝を抄記した『梁塵秘抄口傳集』を編纂する。これから、承安四年(1174)三月廿六日の後白河院と建春門院の厳島参詣のことについて考 | |
察する。 | |
梁塵秘抄口傳集 | |
(りょうじんひしょうくでんしゅう) | |
厳島参詣 原文 | |
あきの、いつくしま(1)へ、建春門院(2)に、あひくして、参る事ありき。やよひ(3)の十六日、京を出て、おなし月廿六日まいりつける。宝でんの | |
さま(4)、廻廊(5)なかくつ ゝきたるに、しほさしては、廻廊のしたまで水た ゝへ、いりうミのむかへに、浪しろくたちて、なかれたる。むかへの山 | |
(6)を見れは、木々みな、あをミわたりてみとりなり。やまに、た ゝめる、がむぜきのいし、水きハに、しろくして、そばたてたり(7)。 白きなミ、 | |
時々打か ゝる。 めでたき事かぎりなし。おもひしよりも、おもしろく見ゆ。その國の内侍二人(8)、くろ・釋迦なり。からそうぞく(9)をし、かミをあけ | |
て、まひをせり。五常楽・こまぼこ(10)を、まふ。きかく(伎楽)の、ぼさつの袖ふりけむも、かくやありけんと、おぼえて、めてたかりき。 | |
公卿殿上人、楽人、太政入道、そのとも人、いまだ座をた ゝぬほどに、まさしき、みことて、年よれる女を、くして、人きたれり。我にむかひてゐ | |
ぬ。いふよう、われに申ことは、かならず、かなふべし。後世の事を、申こそ、あはれに、おほしめせ。今様を、きかばやといふ。あまり、はれに | |
して、しかも、ひるなり。いたすべきやうも、なくて、あるに、猶たび々いへば資賢(すけかた)(11)を、よびて、これうたへといふ。かしこまりて、ゐ | |
たり。なを、きかむといへば、すちなくていたす。 | |
次第聲聞(しだいしゃうもん)、いかばかり、よろこひ身よりも、あまる覧、我らハ後世の、佛ぞと、たしかに、き ゝつる、けふなれバ、いたして、 | |
これつけよといへど、すけかたあらで、つくることなくて、二反おハりにき。心に後世の事、他念なく申し事を、いひ出たりしかば、しむ、をこりて、 | |
なミた、おさへかたりき。太政入道、この御神は、ごせを申を、よろこばせ給よし。申されしかば、さらぬだに、現世のこといと申さぬうへに、さあ | |
りしかば、後世を申を、いひいてたりしなり。 | |
厳島参詣 訳 / 注記 | |
安芸の厳島神社へ、建春門院と参拝したことがあった。三月の十六日に京を出て、同じ月の二十六日に着いた。宝殿(社殿)の様子は、その | |
まわりに、廻廊が長く続き、満潮になると廻廊のすぐ下まで水をたたえ、入江に向かって、白い波頭が立っては流れてゆく。対岸の赤碕の山を | |
見渡せば、森の木々はどれも蒼く緑が濃い。 山から立ち上がる岩石の肌は、水際になると白くそびえたっているところを、白い波が時々寄せて | |
その岩肌に打ち寄せる。ほんとうにすばらしい景色で、予想していたより ずっと面白く見た。安芸の國の厳島神社の内侍は地元の者で、黒(く | |
ろ)と釈迦という二人の巫女がいる。唐装束をまとい、古式にのっとり髪を結い上げて舞った。演じた舞は、五常楽(ごじょうらく)と狛鉾(こまぼ | |
こであった。天上の菩薩が、楽曲を奏する袖振る舞う姿も、このようであったと思われるほど素晴らしいものであった。) | |
公卿、殿上人、楽人(がくにん)、太政大臣の入道平清盛、入道の供の者などがまだ席を立たないうちに、「正真正銘の巫女である」といって | |
年とった女を連れた者が来た。巫女は私と向かい合わせに座って、何を言い出すかというと、「我に願うことは、必ず叶うであろう。後世のこと | |
(極楽往生)を願うことを神仏はしみじみと慈愛深くお思いになっておられる。今様を聴きたい」と。あまりに正式の席だし、しかも昼日中であるし | |
歌い出せる雰囲気ではないので黙っていたら、巫女が「歌え」と度々言うので資賢(すけかた)を呼んで、「今様を歌うよう」と言いつけても、緊 | |
張して固まったままでいる。 | |
巫女はそれでも、「今様を聞きたい」と言う ので、しょうがないから私が歌った。 | |
四大弟子の方達は どれほどの | |
身に余る喜びを得た事であろうか | |
私たち四人は後世には仏と成ると | |
確かに釈尊より言われた言葉を聞いた今日なのだから | |
ひととおり歌って、「つけ歌してくれよ」と言っているのに、資賢がその場から逃げてしまったので、二番まで歌い、終わりにした。巫女、「雑念な | |
く、来世への思いが一心にあふれておりますこと。必ず大往生されましょう」と託宣する。自分の心の内を云うので、そこで初めて信じたい気に | |
なって、涙が出そうになる のをおさえるのに苦労した。太政大臣の入道(清盛)が、「この神さま(厳島の御神)は、後生(極楽往生)のことを祈 | |
りお願いするのを、お喜びになりますそうな」と前から申されていたので、そうで なくとも、私はふだんから現世のことにはあまり関心がない上、 | |
巫女が告げた託宣と清盛の話が同じであったので、来世の極楽往生を願い歌ったのだった。 | |
(注記) | |
(1)あきのいつくしま・・・安芸の厳島 | |
安芸国の厳島神社 現広島県廿日市市宮島町 日本三景、世界遺産。 | |
三女神は福岡県宗像にある宗像大社(むなかたたいしゃ)と同じ祭神。海上安全・商売繁盛の守り神として信仰を集 | |
めている。社殿は、五九三年(推古天皇即位元年)安芸の国 佐伯郡(さえきごうり)の豪族ともいわれる佐伯鞍職 | |
(さえきのくらもと)の創建と伝えられている。釣りをしていた佐伯鞍職(さえきのくらもと)に、祭神の市杵島姫命(いち | |
きしまひめのみこと)が厳島に社殿を建てるように言ったので、笹の枝をくわえたカラスに導かれ社殿を建立したのだ | |
という。真偽はともかく、厳島は弥山頂上の巨大岩を神として崇められた神の島であった。死・血など穢(けが)れを嫌 | |
い、出産すれば即時に子母とも、船に乗せて、地のかたに渡す。血忌百日終わりて後、島に帰る。死人あれば、即時 | |
に島の向う赤崎という地に渡して御室山(むろやま)に埋葬する。喪の人もその地に居留るなり。島中の者、向かうと | |
いう言葉を忌むは、死亡の者を向うの地に渡す故なり。平成の現在でも宮島には、墓・墓地はない。 | |
弘治元年(1555)あの毛利と陶の厳島の合戦の時の多くの息絶えた兵士は、対岸の五日市で後始末がなされたという。 | |
(2)建春門院 | |
平清盛の妻の妹、平時信の娘・滋子(しげこ)、高倉帝生母。後白河の寵愛はきわめて篤かったが三十五歳の若さで | |
亡くなった。 | |
(3)やよひ | |
承安四年(1174)弥生三月十六日京を出立。 | |
(4)宝でんのさま | |
仁安三年(1168)神主佐伯影弘(せきかげひろ)は厳島の本宮37宇(宇は建物の数)、対岸の地御前(じごぜん)19宇 | |
の堂社殿を造営し、現在偉容を誇るユニークな廻廊で結んだ鮮やかな朱色の海上の神殿を完成させた。 | |
文治元年(1185年)壇ノ浦の合戦で平家が滅亡したことは、歴史上大きな変革となり、神主 佐伯氏の勢力も衰退し、厳 | |
島神社は承元元年(1207年)に続き、貞応二年(1223年)二度目の火災後は、12年もの間神社の再建ができなかった。 | |
そこで鎌倉幕府の御家人で周防の守護職であった藤原親実(ふじわらちかざね)に神主職を譲り、親実は神主職 (承久 | |
三年(1221年) と安芸国守護職 (文暦二年(1235年)を兼ね、厳島神社は再建することができた。こうして佐伯氏に代わり | |
藤原神主家が戦う神主家として対岸の桜尾城を厳島神社神領の拠点とし安芸国内で屈指の勢力となった。 | |
(5)廻廊かいろう | |
本殿・拝殿・祓殿・高舞台・火焼前・大鳥居と本殿から海上に浮かぶ大鳥居へ一直線の流れで、また本殿の左右には | |
客神社・朝座屋、能舞台などが配されている。廻廊は東・西廻廊があり、屋根桧皮葺(ひわだぶき)でそれぞれ82,113m. | |
(6)むかへの山 | |
対岸の宮島口。 ここ二 三十年で対岸の山も団地・高速道路建設などで木の緑も相当失われ、火焼前から大鳥居を | |
見るとバックの山肌が汚く、自然破壊が随分進んでいることがわかる。 | |
(7)やまに、た ゝめるがむぜきのいし、水きハに、しろくして、そばたてたり | |
山に立ち上がる岩石が、水際に白くそびえたっており、白い波が 時々この岩肌にうちよせる ・・・と思しき場所は?? | |
現在の神社を中心として海岸線を見るに、多々良から内侍岩がある辺りに水際に岩がある。もしこの場所以外である | |
なら、現在の海岸線とだいぶ違いがあることになる。 | |
厳島合戦より十四年前の天文十年(1541)五月の山津波は、本社の背後の地形を一変させてしまった。御手洗川か | |
ら流出した大量の土砂は、本殿背後の観音堂の周りを埋めつくし、南の宝蔵辺りは、1丈(10尺)ほど堆積し、東に建 | |
っていた一切経堂を沖へ流した。この土砂は、三笠の浜の海岸線を北(向うの地方向)に押し出したのであった。 | |
それから560年後、元文元年(1736)水害で流出した土砂で、御手洗川の河口に松原を築いた。海岸線は埋め立て | |
などで相当変化している。有の浦の現在の商店街も、貝原益軒の元禄二年(1689)厳島佳景(いつくしまかけい)に | |
はない。描かれているのは現在の町屋と呼ばれている通りである。さらに、三笠の浜の参道、石鳥居もない。 | |
(8)内侍二人ないしふたり | |
祠官職員の内侍の項 (引用:宮島町史 芸藩通志十五・・・P343) | |
厳島神社では 巫女のことを「内侍(ないし)」と呼んで三十一人いた。 | |
●御殿階下まで進ミ、傳供(ごくう)をなし、故ある神楽にのミ會するもの、十員あり。 | |
●十員の内、八乙女と称し、左右、四座に分る。 | |
竹林・徳壽・御子・四臈・五臈・六臈・七臈・八臈・新内侍二人。 | |
●大床より、上の傳供を、なして、平常神楽をも勤めるもの八員。 | |
和琴・韓神・田・才鶴・千松・於梅・金千代・於宮内侍。 | |
●大床まての傳供、平常神楽をも勤めるもの十三員。 | |
河野・宮松・紀伊・於春・飯田・宮槌・高井・溝部・石田・宮熊・地・植木・あねい内侍。 | |
厳島内侍と呼ばれた巫女は、八乙女といい8人の本内侍(ほんないし)と、ほかに手長内侍(てながないし)がいた。 | |
内侍は巫女として神事に携わる一方、夜に入ると、参詣の貴族の宿所に出向いて、娼(遊女)を兼ねるなどしていた。 | |
内侍迎の図(宮島町史 資料編 地誌紀行編TP757) 画像をクリックすると詳細拡大 ☆ 『ここをクリックすると超拡大』 (戻る時はWinで) |
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上の「内侍迎の図ないしむかえのず」は1842年刊行の「芸州厳島図絵」に見えるのである。 | |
左の図の左から2番目の男の顔の部分に見える内侍橋の脇の「水盤」に注目。現在この水盤は行方不明である。 | |
「宮島町史 資料編・石造物」によれば、西連町の「不動堂」いわゆるお不動さんの水盤の可能性があると指摘されている。 | |
水盤の銘文は「寛文七 丁未年 厳島御宝前 奉寄進手水石鉢・・・三月」とあり、「寛文七 丁未年三月(1667年)」厳島神社 | |
に奉納されたもので、絵図と類似しているのである。よってこの絵図は寛文八年正月以降の事となるのであろうか。 | |
記事内容 | |
内侍 (ないし | |
迎は、元日 (むかへは、がんじつより | |
三ヶ日迄の事 (さんがにちまでのこと | |
にして、手長内侍 (にして、てながないし | |
神楽男その家々に (かくらをそのいえ々に | |
至迎て、神殿にいたらしめ、供御の事を (いたりむかへて、しんでんにいたらしめ、くごのことを | |
取行也。元日に出るを竹林内侍、二日に出るを徳 (とりおこなうなり。がんじつにでるをたかはやしないし、ふつかにでるをとく | |
寿内侍、三ヶ日に出るを御子内侍。これを本 (じゅないし、さんがにちにでるをみこないし。これをほん | |
内侍といふ。外に随従するものを手長内侍 (ないしといふ。ほかにずいじゅうするものをてながないし | |
といふ。 文陽 [印] (といふ。 | |
久安二年〈1146〉、平清盛(たいらのきよもり)が安芸守となり、安芸国の一ノ宮である厳島神社を崇敬するようにな | |
ってから、平家一門の栄華がはじまった。 | |
治承元年〈1177〉の十月、平清盛が、平家一門を率いて厳島神社の廻廊に千人の僧を集めて、大法会を行った時 | |
の記録、「伊都岐嶋千僧供養日記」によれば、平安期当時の厳島内侍たちの名が見える。 | |
(1)黒内侍、(2)竜樹内侍、(3)普賢内侍、(4)文殊内侍、(5)弥陀内侍、(6)万寿内侍、(7)多聞内侍、(8)釈迦内侍、 | |
(9)千歳内侍、(10)乙内侍、(11)地蔵内侍、(12)薬王内侍の12人である。 | |
承安四年(1174)の梁塵秘抄中に「黒内侍、釈迦内侍」の名が見える(原文4行)。 | |
祠官(しかん)職員の項序文には(引用:宮島町史 芸藩通志十五・・・P342)・・(途中省略)文暦二年より、前周防守、藤原親 | |
実、安芸守となり、桜尾城に在て、世 ゝ當社の神主を兼ねたりしたが、興藤に至、滅亡し、その後、此職廃しぬ。 | |
今官員如左。とある。 | |
周防前司藤原親実(すおうぜんし ふじわら ちかざね)が神主職(承久三年1221年)になり、安芸国守護職(文暦 | |
二年(1235)を兼ねたとき、山田氏も鋳物師(いもじ・・・鉄を材料とする物を作る鋳工)として鎌倉から厳島神社造営 | |
のため、廿日市にやって来たとされる。戦乱の世の常、戦に負ければ死あるのみ。生き延びるためには、勝ち戦で | |
なければならない。今回の情勢は興藤方に不利と判断した興藤に従属していた神領衆羽仁、野坂、熊野氏らは、興 | |
藤を見限り、四月五日夜半(よなか)、大将への忠義をかなぐり捨て、戦わずして一斉に桜尾城を抜け出した。我一人 | |
と気づいたがすでに遅し、友田興藤(ともたおきふじ)は城に火を放ち切腹をした。神主の広就はというと栗栖氏に伴 | |
われて城を抜け出し五日市城に入ったが、翌六日には五日市城も大内方に包囲されたため、五日市城主宍戸弥七 | |
郎は神主の広就を説得し切腹させて、大内方に降伏した。時まさに天文十年(1541)四月六日。承久三年(1221)藤原 | |
親実が鎌倉より神主職に任ぜられて以来三百二十年にわたり神主職を世襲し、厳島神社神領、佐西郡を支配して | |
きた藤原氏神主家はついに滅亡したのである。 | |
これが序文の意であるから、31人の内侍は厳島合戦の14年前、天文十年(1541)以降の頃と推測できるのである。 | |
(9)からそうぞく | |
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(10)五常楽・こまぼこ | |
常楽(ごじょうらく)や狛鉾(こまぼこ)は雅楽の演目。 | |
(11)資賢(すけかた) | |
源 資賢(みなもとすけかた) -永久元年(1113)〜文治四年(」1188)- | |
後白河法皇 の近臣。 | |
参考文献: 宮島町史資料編・地誌 紀行 T、 資料編・石造物、 廿日市町史資料編 (上)、 棚守房顕覚書 付解説 |