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◇廿日市に生まれた神童か
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堀田仁助は、廿日市津和野藩船屋敷に生れた.石見津和野藩士で、幕府の天文測量方として、 |
蝦夷地航海測量に赴き、その先駆者として功績を残した人物である。 |
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◇藝州廿日市宿 |
廿日市宿は、石州と藝州の陰と陽の縁を結ぶ「津和野街道」の終着地である。 |
承久三年(1221)鎌倉幕府御家人 藤原親実以来、約400年続いた桜尾城は、厳島神社神主家の |
居城、大内、毛利氏とその時代の安芸国佐伯郡の中心であった。天正十五年(1587年)には九州 |
征伐に向かう途中、あの豊臣秀吉も桜尾城に着陣している。 |
慶長五年(1600年)関が原の戦後、毛利氏が防長へ転封(領地の移し換え)になり、毛利氏支配の |
終焉に伴い、桜尾城は次第に荒廃していき、樹木が生い茂る小高い山に成り果てる。そして広島
藩の御建山 (おたてやま・・・松・杉・檜などの良木の育成が可能な場所は御建山とする方針をと |
って設定され、そこではどんな木でも伐採を禁じられた。) となった。城址の西方の広大な空き地 |
となった居館跡に寛永八年(1631年)津和野藩の御船屋敷ができた。 |
◇藝州津和野藩御船屋敷 |
元和(げんな)六年(1620)石州津和野藩亀井家(4万三千石)は、廿日市に「船着ノ蔵屋敷」を置い |
た時代はまだ参勤交代や特産の石州和紙の輸送などに利用できるような宿泊・紙倉施設は整備さ |
れておらず、廿日市商人の鳥屋七郎右衛門宅に宿泊していた。しかしこれがなにかと不便につき、 |
廿日市町内へ宿泊施設を望んだ津和野藩は、寛永七年(1630)三月二十五日、本陣・庄屋役を仲 |
介にして広島藩へ用地の提供を願い出、翌、寛永八年(1631)五月十八日壱反八畝廿七歩の土地 |
の引渡しとなり、船屋敷は同年完成をみる。 |
津和野藩特産の石州和紙の主な市場は"大坂" であり、瀬戸内海航路を利用し、兵庫の室津まで |
輸送する目論見であった。参勤交代時も室津まで海路で進み、のち陸路で江戸へ向かうルートを |
を設定していた。参勤交代の行列は、津和野街道から西国街道に入り、廿日市の可愛川を渡り町 |
屋に差し掛かると船屋敷まではもうすぐである。凡そ18里余(70`余)の距離である。 |
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◇堀田仁助は、 |
仁助は、延享四年(1745)、藝州津和野藩船屋敷 蔵屋敷紙払役人の嘉助の長子として、 |
廿日市津和野藩船屋敷に生れた。 出生年については、1747年説もある。 |
幼名を兵之助、のちに仁助と改め、泉尹(いずただ)と号した。幼少の頃数理に秀で、十四歳で藩の |
の御船手役所見習に抜擢され、藩務に着いた廿日市の生んだエリートである。 |
宝暦十二年(1762)津和野に帰り、十八歳のとき、勘定所見習に抜擢された。藩の湯永経について |
数学をに学び、明和元年(1764)二十歳で守居組、二十一歳で大納戸手伝、二十二歳で川普請手伝とし |
て甲州に出向するなど活躍。天明二年(1782)三十八歳のとき、第七代津和野藩主亀井炬貞(かめ |
いのりさだ)に随伴し、江戸に赴いた。 |
仁助の才能は、幕府中枢に知れるところとなり、天明二年(1783)六月十一に、幕府天文方に召抱えれた。 |
渋川図書を補佐し、天文学を応用して享和3年、文化五年、文化十四年(1817)と三回暦を作成するなど |
実績をあげ、次第に重用されるようになる。 |
仁助は和算家藤田貞資(ふじたさだすけ)に師事し、和算を学び、寛政二年(1790)庚戌二月鎌倉鶴 |
岡八幡神社に、「関流藤田貞資門人 亀井隠岐守家士 堀田仁助泉尹名」で和算の問題と解答、 |
その解き方を記した扁額を奉納六月十一にしている。 |
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◇大黒屋光太夫(だいこくやこうだゆう)は、 |
伊勢国白子(しろこ・・・・現三重県鈴鹿市)の港を拠点とした廻船(物資輸送船)千石積みの神昌丸 |
の船長として、船員16名とともに江戸にむけて白子を出帆したところ、遠州灘で暴風雨に襲われ、 |
約7カ月漂流したのち、翌年アリューシャン列島のアムチトカ島に漂着した。ロシアで生活を続け、 |
帰国嘆願書を提出するが受け入れられず、漂流から約9年半後の寛政四年(1792)ロシアの遣日 |
使節アダム・ラクスマンに随行し根室に帰国できた。アダムの来日目的がロシアの南下政策であ |
ったことが次第に明らかとなってきた今、時代は確実に動いていった。 |
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◇蝦夷地へ出立 |
このことで幕府は蝦夷地に重大な関心を持ち始め、蝦夷地の経営・警備の必要性に迫られた。 |
そのため、江戸から蝦夷地の海上航路の開設が急務となった。 |
三月二十四日に幕府の第一陣が江戸 品川から新造船政徳丸で出立し、六月末に到着。蝦夷地 |
への迅速な物資輸送の必要を感じた幕府は、渋川図書の補佐で天文方暦作手伝の仁助を起用 |
し、蝦夷地行きの航路図を製作させることとなった。 |
寛政十一年(1799)六月二七日、品川沖から1460石積の御用船神風丸で蝦夷へ向け出立する。 |
仁助一行は、その門人内田五郎八、浪人深津小志太、見習木村清蔵、鈴木周助に召使三人、皆 |
川沖右衛門(船頭)ほか三人、水主(かこ)十七人、大工一人、杣(そま・・・木こり)二人の総勢三 |
十二人である。オランダ製のイスタラビ・象眼儀・遠視鏡・時計・磁石などが天文方から貸与され、 |
仁助は観測器具 象眼儀・渾天儀・星図鑑・天球儀などを持参。関東・東北地方沿岸部の地形を |
船から測量しながら蝦夷に向かった。八月四日、岩手の宮古町に寄り、風待ちのため廿日間の天 |
候の回復を待つ。厚岸に到着したのは八月二十九日であった。 |
九月四日まで当地に滞在したあと、蝦夷地の太平洋沿岸を測量しながら陸路松前に着き、船で津 |
軽の三馬屋港(三厩みんまや)に渡り、江戸までの帰路は、奥州街道経由で、途中各地で天文観 |
測を行い緯度を計測し、十一月十五日に江戸に帰着した。 |
これまでの江戸から蝦夷地までの航海は、沿岸を目視しながらの往来であったが、仁助達は今回 |
の航海で、宮古から東蝦夷地への外洋航路を開拓したのである。 |
仁助は、わが国最初の江戸・蝦夷地間の航路図「従江都至東海蝦夷地針路之図」を製作し、幕府 |
に差し出した。 |
伊能忠敬の第一次測量に先んずる事一年、蝦夷地地図を作成、蝦夷地航海測量の先駆者となっ |
た仁助は、忠敬の測量に先鞭を付けた功労が認められ旗本にとの話もあったが、仁助は、旗本登 |
用への話を辞退し、文政九年(1826)、高齢を期に、幕府に辞表願を出す。その時は、幕末末期で、 |
明治元年 文明開化の夜明けになる四十二年前のことであった。 翌年、八十歳で津和野へ帰藩し |
た仁助は、森村の養子嘉助の家に落ち着く。そして文政十二年(1829)九月五日八十二歳でその生涯を閉じた。 |
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◇偉業その評価 |
対ロシアの警戒に端を発する江戸から蝦夷地への初航路図作成を担った仁助の評価は、あまり |
にも低すぎはしないだろうか。やはり、お上からの処遇にNOを突きつけたことが最大の要因なので |
あろうか・・・。仁助という人は他者を蹴落としてでもという出世欲を持ち合わせていなかったのであ |
ろう。奥州・蝦夷への伊能忠敬の測量になんら影響はなかったということはあり得ないのであり、い |
つの日か納得できる歴史的評価がされることをただただ期待するのみである。 |
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仁助は、測量に使用する機器を自ら開発・作成したといわれるが現存しない。残された蝦夷地 |
図、日本地図、世界地図と黄銅製尺度(ものさし)やコンパスなどは、日本学士院に保存されてい |
る。津和野大皷谷稲成神社では、仁助が作成した天球儀と地球儀(木製、直径37p、1808)を所蔵 |
されている。 |
特筆すべきことに、非公開の三種の地図も所蔵されている。 |
特別小図 堀田仁助写の、亀井侯への帰国土産。 |
日本国地理測量之図 |
東三拾三国沿海測量之図 |
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<堀田仁助作成の天球儀・地球儀> |
<津和野 太皷谷稲成神社> |
これらは、堀田仁助が亀井城主に献納したもので、太皷谷稲成神社に奉納され当社に所蔵されているという謂われがある |
(つわの たいこだにいなり)
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太皷谷稲成神社の「こ」は「鼓」ではなくて「皷」で、「いなり」は「稲荷」でなく「稲成」である。 |
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静かに眠る堀田仁助の墓 |
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覚皇山 永明寺(ようめいじ) (津和野町) |
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吉見、坂崎、亀井氏といった歴 |
代の津和野城主の菩提寺。 |
「森林太郎」と彫られた森鴎外の |
墓もひっそりと佇んでいます。 |
山門を入り境内の外を5分位行 |
った山の急斜面を平地にした |
所に、仁助の墓はあります。 |
それは質素な自然石です。 |
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(2007/5/24撮影) |