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   古文書習い                   塵壺 tiritubo   
   (かわ)()(つぎ)()(すけ)の西方遊学旅日記 −宮島の条−


ながおかネット・ミュージアム長岡市立中央図書館)のHPの原本日記を
古文書習いのテキストとして変体仮名、くずし字の習得に努める。


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河井継之助とは

 激動の幕末、戊辰(ぼしん)戦争において、越後・長岡藩を率いて新政府軍に徹底抗戦したことで知られる河井継之助が目指していたのは『武装中立』であった。
 河井継之助は文政10年(1827)1月1日、長岡藩の中級藩士・河井代右衛門秋紀(かわい だいえもん あきのり)の長男として長岡城下に生まれる。
名を秋義(あきよし)、蒼龍窟(そうりゅうくつ)と号す。「継之助」は幼名・通称で、読みは「つぎのすけ」とされる。
 河井家は代々能史の家柄で、継之助の父・代右衛門秋紀も勘定頭を務め、僧の良寛とも親交のある教養人でもあった。母親は、貞(てい)と言い、気丈な女性であったという。その気質を継いだのか継之助は、親の指図は聞かず、負けず嫌いで、非常に腕白で、年長者の理不尽な脅しにも屈しない意思の強い子供であったと伝えられている。

河井継之助と戊辰(ぼしん)戦争について

 慶応3年(1867年)10月に幕府より朝廷に大政が奉還(統治権を返上)され、12月には王政復古の大号令が発せられ、新政権を掌握した討幕派らにより旧幕府派の排除が開始された。翌年(慶応4年)1月3日には「鳥羽・伏見の戦い」で旧幕府軍と新政府軍が激突戊辰(ぼしん)戦争が勃発。翌年5月にかけて、維新政府軍と旧幕府派との間で行われた内戦で、鳥羽・伏見の戦い、上野の彰義隊の戦い、会津戦争、箱館戦争などの総称である。
 新政府軍は江戸城を無血開城させ、反抗勢力を制圧するため各地に軍を送る。越後には3月15日に高田(現在の上越市)に北陸鎮撫総督らが到着し、越後11藩に対して軍資金と兵士の供出を求めた。継之助はこれに対し沈黙を守る一方、幕府派である奥羽越列藩同盟からの加盟要請を断り、中立の姿勢をとった。 
 諸藩のほとんどが新政府軍に恭順する中、中立の立場をとる長岡藩に向け進軍が開始され、4月27日には新政府軍は小千谷を占領。
 この日継之助は軍事総督に任命される。
継之助は和睦の望みをかけて、5月2日小千谷会談場所である慈眼寺(じげんじ)で当時24歳の岩村精一郎と会談。継之助は非戦思想を訴え、和睦に向けた幕府軍説得のための猶予を願い出るものの、岩村はこれを認めず会談は決裂、やむなく継之助は徹底抗戦を宣言、長岡藩は奥羽越列藩同盟に正式加盟することとなる。
 新政府軍約2万人の軍勢に同盟軍は5千人の兵力で5月10日ついに開戦。新町口での戦いで総指揮官である継之助が左足に銃撃を受けて重傷を負い、交戦の疲労、同盟軍の新発田藩の寝返りで戦況は悪化の一途をたどり、7月29日、長岡城は再び陥落した。継之助は会津領へと撤退途中に容態は悪化、破傷風により、1868年(慶応4年)8月16日午後8時頃、会津領塩沢村(現在の福島県只見町)にて42年間の波乱の生涯に幕を下ろした。
 継之助亡き後、同盟諸藩は次々と脱落、長岡藩は1868年(明治元年)9月23日無念の
うちに降伏を告げる。
 3ヶ月に及ぶ激戦の結果長岡の街は焼き尽くされ、戦死者は300数十名におよび100名近い領民も犠牲となった長岡藩は、「賊軍」と蔑(さげす)まれ、禄高も7万4千石から2万4千石に減封されたのである。
(参考Web: 河井継之助記念館「河井継之助・その生き様と戊辰戦争」より一部抜粋加工) http://tsuginosuke.net/life2.html
                       ◆ ◆ ◆
 嘉永三年(1850)継之助24歳で、長岡藩士梛野嘉兵衛の妹「すが」(16歳)を妻に迎え
るが、向学心止み難く、26歳で単身江戸を目指し、蘭学や西洋砲術で知られた佐久間
象山らの門を叩く。安政5年(1858)再び継之助は江戸だけに留まらず、目指したのは備中松山藩(岡山県高梁市)の陽明学者、山田方谷(ほうこく)であった。

 「塵壺」は、戊辰に突入九年前、安政六年(1859)、継之助三十三歳のとき、備中松山藩
の山田方谷を訪ね、入門を請い、九月十八日松山を発ち、四国・中国・九州を遊歴し、十
一月三日松山に帰るまでの知見を広くした旅日記である。

 ほかに著述のない継之助の唯一である「塵壺」は、
「何も用のある事はなけれ共、他日、御両親への御咄の積りと、思い附きし事を記すのみ」と自身記している。
 
 宮島の条は、百五十年ほど前の九月二十五日に草津より宮島へ訪ねたときを記したもので、当時を知ることのできる貴重なものである。



塵壺 tiritubo

−宮島の条−

安政(あんせい)六年(1859)
  
   九月廿五日  
  宮島壱                      画像をクリックすると拡大
           
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 行 解読文  読み
1  廿五日晴  25日はれ
2  小舟より草津舩移ると  こぶねより くさつふねにうつると
3  間毛奈く舩を泛天氣ハ好  まもなくふねをうかべてんきはよく
4  島々諸山之風景ヲ見直ニ厳島  しまじましょざんのこうふうけいをみじかにいつくしま
5  を左し天追い風者せける  をさしておいかぜに はせけるゆえ
6  無程厳島附漸五ッ頃奈り  ほどなくいつくしまえつく ようやくいつつころなり
7  此中之楽昨夜之不快  このなかのらく さくやのふかい
8  を散春るニ足り面白事也  をさんするにたれりおもしろいことなり
9  宮島富アリ年六回之由  みやじまにとみあり ねんにろっかいのよし
10  此節其一度ニて既ニ済けれ  このせつはそのいちどにて すでにすみけれ
 11  と毛取當之者追々行  ども とりあてしものおいおいいく
 12  事と見へ天同舩三四人  こととみえて どうふねにさん・よにん
 13  あ里我富札ヲ見多り  あり われとみふだをみたり
 14  宮島上がり天朝飯遠  みやじまえあがりて あさめしを
     
   意味  
   廿五日晴 (安政六年(1859)九月二十五日)
   前日広島(浅野家、三十七万六千石の城下町)に七ッ(午後四時)頃着き、夜四ッ(午後十時)時
  分、船宿より宮島へ渡るため船に乗るまでの間、所々見物。広大な城市共賑やかだが、余り綺
  麗とはいえない。城の外郭など、甚だ手入れがされてなく、備後の尾道よりも藝州領で、宿、村 
  々いづれも宜しい様に見えるが、山野も多く、広大な領地であるが余り富国ではない。 
  三都(江戸時代の日本三大都市 京・大坂・江戸) を見なければ、驚く程繁華である。  
  九ッ(午前零時)過ぎ迄、潮満ちず、舩が出ない。漸く出るかと思えば舩が川底につかえて動か 
  ない。船頭、乗手迷惑、骨入り損。 終に小舟を雇い、壱里ばかりの草津に夜明けに着く。  
  寒く、寝られず、今宵は馬鹿らしい目にあった。  
  全体に川浅く、今宵は潮の満たざる節という。「此の川、此の如き事、儘々あり」と。潮満たざれ 
  ば、実に不自由の川なりと継之助少々ご機嫌宜しからず。   
   広島からの小舟を、草津で宮島へ向かう舩に乗り換えると、間もなく舩出した。幸いにも天氣
  は好し。瀬戸の島々、諸山の景色を眺める。追い風に舩足が速くなり、程なく厳島ニ着く。  
  漸く五ッ(午前八時)頃である。舩中から眺める好景色が、昨夜の不快を晴らしてくれたことが面 
  白い。宮島に富籤があり、年に六回開催される。此の度は済んでいたが富籤を当てた者は、 
  追々行く事と見えて、同船客に、三・四人おり、富札なるものを見た。  
  宮島へ上陸して朝食を  
     
   九月廿五日  
   宮島弐                      画像をクリックすると拡大           
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 行 - 解読文  読み
1  給へしニ、宿ニ富を取中し  たまえし やどにとみをしゅちゅうし
 2  名前張り附天阿里し  なまえはりつけてありし
 3  ■弐朱計りて札壱枚  ■にしゅばかりにてふだいちまい
 4  を賣(カへ)我同宿行し者ハ  をかえ われとおなじやどへいきしものは
 5  六七枚持居連里壱枚  ろくひちまいもちいれり いちまい
 6  當る時弐両三両五両百両  あたるときはにりょうさんりょうごりょうひゃくりょう
 7  餘りも阿る由其咄細可丹  あまりもあるよし そのはなしこまかに
 8  咄し聞せけ連と毛略ス  はなしきかせけれどもりゃくす
 9  宮島て立と云し也  みやじまはこれにてたつといいしなり
 10  面白からぬ事也今晩ハ  おもしろからぬことなり こんばんは
 11  面倒ニ成之故止筆」  めんどうになりしゆえふでをやむ
 12  此後ハ不記十二月七日  このあとはきさず 十二月七日
 13  漸出し只覚処を  ようやくだし ただおぼえしところを
 14  記春留而己  きするのみ
 15  □□□□□宮島附朝飯  □□□□□みやじまえつき あさめし
 16  ヲ給直見物出ルし起り  をたまう ただちにけんぶつにでる しきりに
     
  意味   
   食べに入った宿に富を取中した者の名前を張り附けてある。弐朱計りにて札壱枚を買い、我と同 
  じ宿に行きし者は六七枚持っている。壱枚当たるときは、弐両、三両、五両、百両余りにもなると
  のこと。其の話、細かに話聞かせけれども略ス。宮島はこれ(富籤)にて財政が成り立つと云う    
   なり。面白くない事である。 今晩は面倒になるため筆を止む  
  此の後は記さず。十二月七日、漸く出し(ようやくだし)、ただ覚えている事を記すのみ。  
  宮島へ着き、朝食を食べ、ただちに見物に出かける。しきりに 
     
   九月廿五日  
   宮島参                     画像をクリックすると拡大          
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 行 - 解読文  読み
 1  案内進け連共先奥州  あんないをすすみけれども さきにおうしゅう
 2  行之節金華山之案内  こうのせつ きんかざんのあんない
 3  者安記多ル覚ある故  しゃ あきたるおぼえあるゆえ
 4  敢而辞し直弥山を差し天  あえてじし ただちにみせんをさして
 5  登り此山十八丁二て寺アリ  のぼり このやまじゅうはっちょうにててらあり
6  宮廻りと天更二頂二登り  みやまわりとて さらにいただきにのぼり
7  見る二廣島始江ハ五日市  みるに ひろしまはじめ えば、いつかいち
 8  廿日市地ノ御前眼下二  はつかいち、じのごぜん がんかに
9  見下此島随一高山故四方  みおろす このしまずいいちのこうざんゆえ しほう
 10  を見晴し中國四國  をみはらし ちゅうごく、しこく、 
 11  九州山我と思程之遠山  きゅうしゅうのやまかとおもうほどのえんざん
 12  も見へ頂上ハ大石数ヽ  もみえ ちょうじょうは 大石数々
 13  アリ天春古不留険阻ナリ  ありて すこぶるけんそなり
 14  山上本堂之処ハ頂ナラサル故  さんじょう ほんどうのところはいただきならざるゆえ
 15  如此風景ハナシ先二佐野  このごときふうけいはなし さきにさの
16  之咄之様覚宮島之山ハ  のはなしのようおぼゆ みやじまのやまは
17  不面白と必此堂迄サへ  おもしろからずと かならずこのどうまでさえ
     
   意味   
   案内を勧められたが先に奥州行之節、金華山の案内者に呆れた覚えがあるので、あえて断り、 
  ただちに弥山を差して登る。 「註」(金華山は宮城県の牡鹿(おしか)半島の東に位置する島)。 
  此の山は十八丁にて寺あり。 宮廻りといって更に頂きに登って見ると、廣島始め江波、五日市、  
  廿日市、地ノ御前、眼下に見下ろす。此の島随一の高山故、四方が見晴らせ、中國、四國、九  
  州の山かと思う遠山も見え、頂上は大きな岩が数ヽあり、非常に地形はけわしい。山上、本堂  
  (弥山本堂・・求聞持堂くもんじどう)のあるところは頂上ではないので、頂上の様な風景はない。  
  先に佐野の話の様に思い出される。(「註」佐野の話は不詳。)「宮島の山は面白からず」と。必ず
  此の堂迄さえ  
     
   九月廿五日  
   宮島肆                      画像をクリックすると拡大         
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 行 - 解読文  読み
1  不被参事と思ハる尤案内  まいられざることとおもわる もっともあんない
2  ナク天ハ甚無理ナリ全態  なくてははなはだむりなり ぜんたい
3  険二し天路不分明之処  けんにして みち ふぶんめいのところ
4  数々阿里頂ヲ少下り釣堂  かず々あり いただきをすこしくだり つりどう
5  アリ伊都岐嶋弥山水精寺  あり いつきしま みせん すいしょうじ
6  奉施入治承元年丁酉二月  せにゅうたてまつり じしょうがんねんていゆうにがつ
7  日建立聖人永意施主右大将  にち こんりゅう しょうにん えいい せしゅ うだいしょう
8  平宗盛と云字アリ古物ナリ  たいらのむねもりというじあり ふるきものなり
 9  其外東南當り社アリ随分  そのほかとうなんにあたり やしろあり ずいぶん
10  面白山ナリ山ヲ下り本堂ヲ  おもしろきやまなり やまをくだりほんどうを
11  周く見物堂之額ハ兼  あまねくけんぶつ どうのがくは かね
12  聞及し通り古画数々  て ききおよびしとおり こがかず々
13  阿連止毛如何春ゝけ惜  あれども いかにすゝけ おしい
14  事ナリ堂之廣大其作り  ことなり どうのこうだい そのつくり
15  方驚目程ナリ千畳敷  かたに めをおどろかすほどなり せんじょうかく
16  と天小高山堂アリ此又  とてこだかきやまにどうあり これまた
17  廣大之物ナリ鹿多ク  こうだいのものなり しかおおく 
18  居陜處座数毛屋数毛相應  おり、せまいところに ざかずも  やかずもそうおうに  
19  アリけ連と毛如何二地陜  ありけれども いかに ちせまく
     
   意味  
   登って来ないからだと思われる。もっとも案内がないとはなはだ無理である。全体にけわしくて、道が
  わからないところが数々ある。頂上から少し下ると釣り堂がある。 「伊都岐嶋、弥山『水精寺』奉施入
  治承元年 丁酉 二月 日建立。聖人・永意。施主・右大将平宗盛」と刻銘された平相国清盛の二男・宗盛
  が寄進したといわれる大梵鐘が釣られていた鐘楼がある(現在は弥山本堂に安置 されている)。梵鐘は
  古きものなり。其の外東南に社あり(光明院か)、随分面白い山である(なぜ面白いのかその訳は不詳で
  ある)。 山を下り、本堂(厳島~社)をあまねく見物する。社殿の回廊に掲げてある額は、かねて聞いてた
  通り、古い画(絵馬)が数々あるが、いかにもすすけ、惜しいことである。
  社殿の広大、其の作り方、目を驚かす程である。千畳敷といって、小高い山に堂がある。これまた広大の
  ものである。(明治中期まで回廊に掲げられていた絵馬は、千畳閣(豊国神社)に移されている。)  
  座数も屋数も相応にあるが、いかにも土地は狭く、 
   
   九月廿五日  
   宮島伍                    画像をクリックすると拡大       
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 行 - 解読文  読み
 1  陶晴堅(賢)之込合へ敗軍セシ  すえはるかたのこみあへ はいぐんせし
 2  も宣哉名高程ニハ風景  もせんなるかな なだかきほどにはふうけい
3  ナキ様思夜ナリ舩出し  なきようにおもう よるになりふねをだし
 4  明方周防之新湊と云処ヘ  あけがた すおうのしんみなとというところへ
5  附  つく
     
   意味  
   天文(てんぶん)24年(1555)10月朔日(さくじつ)(1日)(すえ)(はる)(かた)毛利元就(もうりもとなり)の厳島の合戦のとき、陶の本陣のあた 
  (とう)(おか)を、毛利方に不意を突かれ、攻め込まれ、陶軍があわてふためき敗走したという戦跡を、 
  自らその場に立ち、「宣哉」(せんなり)と恐らく戦を想像しながら実感したのであろう。合戦場跡の土地の狭 
  さに 、ここで2万とも3万ともいわれる兵力が布陣(ふじん)し戦って敗れたのも道理であると継之助は思
  ったのである。名高程(なだかきほど)ニハ風景ナキ様継之助は思う。
  名高きとは、寛永二十年林春斎が日本國事跡考(にほんこくじせきこう))の中で記した三處奇観の一つに宮島を指し 
  たことを云うのであろう。 結局、親に出させた金子(きんす)の旅故、継之助は宮島に宿泊することなく、お
  そらく(あり)(うら)より、その夜の内に、周防(すおう)(現山口県)の小瀬川(おぜがわ)の南・玖珂郡(くがぐん)和木(わき)岩国(いわくに)の東端に 
  に位置する新湊(しんみなと)へ向けて出立(しゅったつ)したのである。

  八十里(はちじゅうり) 腰抜(こしぬけ)武士(ぶし)()(とおげ)と男になれなかった継之助は、一八六八年八月十六日破傷
  風により、四十二歳で、また「なにを()しみ なにを(うら)まんもとよりも このありさまの 定まれる
  ()に」(こうなることは最初から定まっていた運命なのだから、惜しんだり恨んだりすることはない)
  とした陶晴賢(すえはるかた)は三十四歳と夫々若くして逝ったのである。
     
   《三處奇観(さんしょきかん)について》
   江戸時代のはじめ、寛永二十年(1643年)、江戸幕府の儒学者 林羅山の三男 林春斎(1618〜1680)
  が全国を行脚した「日本国事跡考 にほんこくじせきこう」の中で「松島、此島之外有小島若干、殆如盆 
  池月波之景、境致之佳興丹後天橋立安芸厳島(宮島)、為三處奇観」 と記し、「松島、天橋立、宮島を 
  三處奇観となす」と評したのに始まったことを指す。    
 
   
   【継之助の遊歴図】 引用  「塵壺―河井継之助日記」 安藤英雄 校注  平凡社 * 画像クリックで拡大  
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   【参考文献】   
   「日本庶民生活史料集成」第2巻 探検・紀行・地誌 西国編 (三一書房・1972年)所収 「塵壺397頁
   「塵壺―河井継之助日記」 安藤英雄 校注  平凡社 1998年11月30日 初版第13刷 
   「古文書講座 古文書字典」日本歴史古文書研究会編 
   「毛筆版 くずし字解読辞典」児玉幸多編 東京堂出版 2006年第4刷 
   「覚えておきたい古文書くずし字200選」柏書房編集部編 2009年第6刷 
   「覚えておきたい古文書くずし字500選」柏書房編集部編 2009年第4刷  
   「基礎 古文書のよみかた」林英夫監修 柏書房 2004年第9刷 
   「廿日市町史」廿日市町編 
   「宮島歌舞伎年代記」蒲田太郎・純一郎 国書刊行会 昭和50年3月25日 
   宮島を楽しむ 改訂版」中国新聞社発行 平成18年4月  
   
   【参考Web】 
   ながおかネット・ミュージアム「塵壺」より引用 http://www.e-net.city.nagaoka.niigata.jp/museum/tiritubo/index.html 
   河井継之助記念館 http://tsuginosuke.net/life2.html